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2020年初頭から新型コロナウイルス感染症の世界的な感染拡大が始まり、国内外の観光需要が大きく落ち込む状況の中、豊川稲荷では「ヨルモウデ」等の話題が創出され、2024年正月三ヶ日は参拝客185万人に達するなど、2019年を上回る本格的な回復が見えてきたところです。

神社・仏閣には、心身ともに癒され、運気があがるパワースポットとして多くの人が訪れます。豊川稲荷(圓福山 妙厳寺:愛知県豊川市豊川町1番地)の所在地である愛知県は日本で最も神社・仏閣の多い場所でその中でも随一の集客数を誇る豊川稲荷には、国内外から多くの参拝者が訪れます。令和 8 年(2026 年)に 72 年ぶりに「御開帳」の開催を予定しており、更なる集客の起爆剤になることが予想されます。

また、現在の本殿創建100年となる令和12年(2030年)には【大開帳】を行う予定です。

※御開帳とは…普段は厨子(ずし)などの扉で閉められており、拝観できない本尊や秘仏などを一定期間開いて参拝できるように「開扉(かいひ)」や「啓龕(けいがん)」と呼ばれる行事です。
※大開帳とは…豊川稲荷大開帳では令和8年に開催される御開帳よりも長期間開催され、合わせて法堂に納められている御本尊、千手観音菩薩の胎内仏が公開されます。

本殿創建100年に向け、
72年ぶりの御開帳

豊川稲荷は正式名を「妙厳寺」と称し、山号を圓福山とする1441年に開山された曹洞宗の寺院です。本殿にて祀られているのは鎮守・豐川吒枳尼眞天(とよかわだきにしんてん)で、稲穂を荷い、白い狐に跨っていることから、 いつしか「豊川稲荷」「お稲荷さん」が通称として広まり現在に至ります。

豊川稲荷象徴の一つである現在の本殿は、昭和5年(1930年)に創建され、当時多くの職人が現在の豊川の地に移り住むなど、本殿建設に伴い関係人口が増加し、地域経済の発展に大きく貢献しました。

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※昭和5年(1930年)創建当時の豊川稲荷本殿

そののち昭和29年(1954年)午年、戦後復興期から高度経済成長期への移行期であった日本で、豊川稲荷において秘仏である鎮守・豊川吒枳尼真天の 「御開帳」が行われました。当時、貴重な機会に、多くの参拝者が集まり復興と未来への祈りを捧げました。戦後の混乱から立ち直ろうとする日本にとって希望と平和と繁栄を願う象徴的な出来事となりました。

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コンセプトは
「〜時代を超えて、縁を繋ぐ〜」

時を経て、コロナの混乱から新たな時代へと向かう、午年(うまどし)にあたる、令和8年(2026年)豊川稲荷で72年ぶりに秘仏である鎮守・豊川吒枳尼真天の「御開帳」が開催されます。

御開帳では秘仏・豊川吒枳尼真天(とよかわだきにしんてん)が開帳され御身代わりである御前立仏像と糸で繋がり、さらに本殿前に立てられる御縁柱と御前立仏像が善の綱で一つに繋がります。御縁柱を触れることは豊川吒枳尼真天に触れるのと同じ御利益があるとされ、訪れる参拝者とご縁が生まれます。

※御縁柱(ごえんばしら)とは・・・豊川稲荷御開帳の際に本殿前に立てられる角塔婆です。
※善の綱とは・・・結縁のため仏像の御手にかけ参拝者など引かせる五色の綱です。

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※イメージです

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武将と
豊川稲荷信仰の縁

古くは今川義元、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康など武将たちからも信仰を集め、江戸中期に武士の出世を願う「出世いなり」が庶民層に広がり、特に宝暦時代から商売繁盛、家内安全、福徳開運の神として全国に信仰が広がりました。

宝暦時代は徳川吉宗公の時代で、かの名奉行大岡越前守の稲荷信仰は有名で、大岡家は三河時代より豊川稲荷を信仰していたと言われ、忠相は豊川稲荷から吒枳尼眞天(だきにしんてん)を勧請して屋敷に祀り、毎月「午の日」と22日には門を開けて一般庶民も参拝していたといわれています。豊川稲荷東京別院は、文政11年(1828)に信徒の要望により赤坂一ツ木の大岡家下屋敷に豊川稲荷の江戸参詣所として創建され、明治20年(1887)に現在の場所へ移転しています。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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近日ホームページ公開予定

公開時期が確定次第、こちらで詳細をお知らせいたします。
完成まで今しばらくお待ちください。引き続きご期待ください。

豊川稲荷御開帳についての
お問い合わせ

豊川稲荷御開帳推進室
〒442-8538 愛知県豊川市豊川町1番地
時間: 10:00〜17:00